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想像以上に大きかった”しらせ”

 投稿者:河口友彦  投稿日:2017年 8月20日(日)17時19分39秒
  8月20日船橋港に2隻の“しらせ”が寄港したと報道されたので早速見学に行った。
船橋市の市制80周年を記念して、先代のひろせと現役のひろせの2隻を呼び寄せたそうです。
現役の“しらせ”は12,650トンもあり乗組員も約175名だそうだ。兎に角でかくて、まるで軍艦に乗ったみたいで圧倒されてしまった。日本の技術力は大したものである。このくらい大きくないと昭和基地までたどり着けないだろう。鬱陶しい8月のこの頃だが、目の保養になった一日でした。
船に弱い自分はこれに乗ってただで南極に招待されても辞退することだろう。
写真は最初が先代の“しらせ”2枚目が現役の“しらせ”
 
 

九州路 延岡から“神話の里・高千穂”まで

 投稿者:具志  投稿日:2017年 8月 9日(水)20時18分14秒
編集済
  9時半過ぎに「マリンカルチャーセンター」を出発。国道388号線を日向灘に沿って南下し、宮崎県北部に位置する人口12万7千人の延岡市の中心市街地にあるJR日豊本線の延岡駅に立ち寄り、駅周辺を見学した後、江戸時代、慶長8年(1603年)高橋元種によって築城された延岡城に行ってみた。天守は1683年(天和3年)火災で焼失し、残された本丸、二の丸、三の丸は明治維新の廃城令の時も壊されずに済んだそうだが、太平洋戦争時の1945年(昭和20年)の空襲によってすべてが焼失したそうだ。

この城は五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、延岡山(現在の城山)の周囲に内堀と石垣を築いた城だったが、現在では天守台跡地に鐘つき堂があり、明治11年から歴代の鐘守の手によって今も尚、時を告げ続けてきているそうだ。又城の北口の登城門「北大手門」も平成5年(1993年)に復元され、二の丸から本丸への敵の侵入を防ぐために築かれた高さ22mの石垣は当時「千人殺しの石垣」と呼ばれ、礎石をはずすと積み上げられた石垣が一気に崩れ落ちて千人の敵を倒すことが出来ると言われている迫力ある石垣だそうだ。
現在の城山には約200本の桜が植えられ、花見の時期には灯りがともされて夜桜も楽しめるそうだ。

五ヶ瀬川上流一帯の山間地は「高千穂」と呼ばれ、天孫降臨(てんそんこうりん“日本神話でニニギノミコトが天照大神のお告げを受けて国を治めるために高千穂峰に降り立ったこと”)にまつわる伝承を数多く残す地域で、延岡の街を出てからは国道218号線で北西に位置する“神話の里・高千穂”に向かった。

静かな山あいに杉の大木がうっそうと茂る高千穂町の神域「天岩戸神社」には1時半を少しまわった頃に着いた。ここには天照大神をお祀りしている“東本宮”と天照大神がおかくれになった天岩戸(洞窟)を御神体としてお祀りする神社“西本宮”の二つの拝殿が岩戸川をはさんであり、更に神社から岩戸川に沿って徒歩で10分位、500m程離れた川上に「仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわ)」という間口40m、奥行30m位の大きな洞窟があり、ここは天照大神が岩戸にお隠れになった際、天と地が暗黒になり、大勢の神がここに集まり、神議り(かみはかり・話し合い)をされたと伝えられる大洞窟で、この付近では「願いを込めて小石を積むと願いがかなう」と古くから伝えられているそうで「仰慕ヶ窟」の周囲には沢山の石積を見ることができた。

四方を山々に囲まれたこの神話の地で神秘的な渓谷美を見せる高千穂峡は阿蘇山から噴出された溶岩が五ヶ瀬川に浸食されて形成された渓谷だそうで高さ17mの切り立った玄武岩の断崖から流れ落ちる「真名井の滝」の景観は幽玄でとても美しかった。
ここからは少しつづら折りの道を走り、“神話の里”の中心をなす高千穂神社に足を運んだ。長い年月の樹齢を重ねた杉林のなかに鎮座する高千穂神社は神武天皇の兄、「三毛入野命(みけいりぬのみこと)」の創建と伝えられ、高千穂皇神(たかちほのすめがみ)と総称されるニニギノミコトなど多くの神々を祀り「十社大明神」と称されたそうだ。
そして高千穂十八郷に散在する八十八社の総社としてこの地方の信仰の中心をなしており、農業や厄払い、縁結びの神として親しまれ、広く信仰を集めている社だそうだ。
高千穂神社を出たのは4時頃だったが、近くに旧日本国有鉄道時代の「高千穂駅」の駅舎が現在では「第三セクター・高千穂鉄道」の駅として健在だと聞いて行ってみることにした。

平成17年(2005年)8月、台風14号が発生し、日本各地で大きな被害を与えた台風だったそうだが、その時に宮崎県北部の高千穂鉄道、高千穂線にある五ヶ瀬川に架かる二つの鉄橋が崩落し、その後復旧を断念し3年後の2008年12月で全線が廃線となったそうだが現在では廃線された軌道を利用して小型のトラックを改造して気動車にし、トロッコを連結させ、観光客を乗せて隣の駅「天岩戸」間3kmを往復させているそうだ。

高千穂駅は神社からはとても近くにあり、県道7号線を東に走り「城山交差点」の次の十字路を左折し、村役場の先を左に入って駅前に降りる坂を下った所にあり、そこには車が20台ほど停められる駐車スペースがあった。
駅舎は一見して大分痛んでいたが、社を模した造りで屋根には“千木”(ちぎ 神社本殿の屋根の上に突き出て交差した装飾材)も三つ載っており、「高千穂駅」と書かれた切り文字看板もつけられていた。
建物の左手にあった入口のドアーを開けると中に中年の男女二人の駅員がいて「今日の運転は終りましたが、よろしかったらどうぞ中を見ていって下さい」とホームを親切に案内してくれた。
ホームには「たかちほ」と書かれた駅の看板が立てられており、線路は二車線あり、奥の線路に小型トラックのシャシー(ボディーを外した車の台車)にのせた青く塗られた幼稚園児を送迎するバスの様に作られた蒸気機関車が黄色い屋根付きの10人程乗れそうなトロッコを一両つないで停まっていた。
左側の引き込み線の先にはスレート板で作られたデイゼルカーの車庫があり、壁面の上部には昔JRの車両基地でよく見られた、緑色の+マークの付いた安全マークと安全第一と書かれた四角い看板、そしてその下に高千穂鉄道と書かれた看板が取り付けられており、車両が出はいりする二つの大きな扉は閉められていたが車庫内には廃線になるまで高千穂、延岡間50kmを走っていたデイゼルカーが二両停められているとの事だった。

折角だからトロッコが走る次の駅「天岩戸駅」まで行ってみようと思い国道218号線を東に走った。鉄道線路の距離が3kmだという事だったので15分位で行けると思って走ったが意外と時間がかかり30分もかかってしまった。「天岩戸駅」は周囲を沢山の雑木林に囲まれ、ホームに登る階段も金網でふさがれており、無人の廃駅には「あまのいわと」と書かれた駅名とその下に「←ふかすみ たかちほ→」と書かれた白い看板が立っていた。
「天岩戸駅」では観光トロッコは駅に停まっても観光客をホームに降ろさず、そこからはそのままスイッチバックして「高千穂駅」にもどるそうで、人けのない「天岩戸駅」はまさに秘境の駅の感じさえした。
「天岩戸駅」を出た後、国道218号線で今朝走って来た延岡に戻り、今度は国道10号線で日向灘に沿って南に30km程先の日豊本線JR「南日向駅」に向かい、今晩予約をしていた幸脇地区(さいわきちく)にある「民宿船待」に車を走らせた。


 上段の写真 天岩戸神社
 中段の写真 真名井の滝
 下段の写真 高千穂神社拝殿

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九州路、岡城の城下町・豊後竹田

 投稿者:具志  投稿日:2017年 7月23日(日)15時51分9秒
  2012年12月14日(金)。12月10日に九州路に入ってから11日は中津城、12日に府内城(大分城)と杵築城。13日は臼杵城と佐伯城と連日城を訪れ、その都度情緒あふれる城下町を散策し、そして往年を偲ばせる武家屋敷を訪れたが、夕べ大分県の東南端の佐伯市から歴史と文化を育む豊後竹田に移動し、町の中心街にある田町通りの「トラベルイン吉富」に宿を取り、今日も又“荒城の月”で有名な竹田市の岡城の城下町を歩いてみることにした。

朝食は昨夜、夕食をとった「トラベルイン吉富」が経営する一階玄関横に店造りをした「居酒屋・庄屋」(宿泊客はここで食事をする)で済ませ、車は宿の駐車場に停めさせてもらい、徒歩で豊後竹田の城下町を散策することにした。
9時過ぎに宿を出て田町通り、下本町通りを西に歩き、先ず初めにJR豊後竹田駅(ぶんごたけたえき)に行ってみた。駅舎は一見、城の天守をイメージした造りで、一階建て切妻造りの瓦葺き大屋根には大きな入母屋破風が一基載っており、一段下がった出入り口の上につけられた小屋根には向かって右側に少し小さめの入母屋破風、そして左側には同じ位の大きさの軒唐破風が左右を対称にするように載っていた。
折角だから駅舎に入ってみた。この駅は九州旅客鉄道・豊肥本線の駅で全列車が停車するとのことだが、壁に付けられた時刻表をのぞいてみると一日に発着する列車は、上り熊本方面の普通列車が6本、特急が2本。下り大分方面は普通列車が18本、特急が2本だった。また列車が到着するとホームに「荒城の月」の曲が流れるそうだ。

豊後竹田駅を出た後、稲葉川河畔の高台にある「佐藤義美記念館」を訪れた。佐藤は竹田市出身の男性童謡作家で童謡「いぬのおまわりさん」の作詞者で、建物は逗子市にあった大正ロマン漂う木造洋館を再現しているそうで300円の入館料を払い中に入ると館内は佐藤の晩年の書斎が逗子の住まいと同じように造られており、童謡や童話の初版本、自筆の原稿や絵、使用していた筆記用具などが展示されていた。

「佐藤義美記念館」を出た後、裏手の山にある観音寺を訪ねた。ここは元和4年(1618年)岡藩・初代藩主・中川秀成公が祈念所として建立した寺で、山上の「愛染堂」に向かう参道の石段右側の大きな自然石の上には石造りの「十六羅漢」が並んでいた。石段を登りつめると国指定文化財の「愛染堂」があった。
「愛染堂」は寛永12年(1636年)岡藩第二代藩主・中川久盛公が日光東照宮造営に携わった飛騨の絵師、彫刻師等の工匠に造らせた宝形造りのお堂で、中に入る事は出来なかったが堂内には弘法大師直筆の仏画、伝教大師作の仏像及び江戸時代の絵師・土佐光起(とさみつおき)筆の屏風等があり、天井は格天井、側壁には、極彩色で天女などが描かれているとのことであった。

先程登ってきた参道を下り、観音寺を出てから細い路地を右に曲がった通りの一角に「瀧廉太郎記念館」があった。
瀧家は豊後國・日出藩(ひじはん)の家老職を代々務めた上級武士の家柄だったそうだが明治時代になってから、父吉弘は上京し、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚を務めた後、横浜、富山などの地方官吏を務め、明治24年12月に大分県直入郡(なおいりぐん)の郡長に任命され、その時、瀧一家に官舎としてあてがわれたのがこの家だったそうだ。この家はもともと岡藩主・中川家の家臣を務めた岩瀬家の由緒ある屋敷だったそうで、当時の竹田は岡藩の城下町で九州の小京都として、しっとりとした風情をたたえた文化の薫り高い街だったそうだ。家の近くを流れる小さな川・溝川のせせらぎの音や裏山の竹林のざわめき、竹藪の中から聞こえる雀のさえずり、それらのすべてが明治24年から26年までの12歳から14歳までの二年半、多感な少年時代を家族と暮らしたこの家こそ廉太郎の感受性を豊かに育て、後に数々の素晴らしい音楽を作り出す源になったのではないのだろうか。

平成4年(1992年)に設立された「瀧廉太郎記念館」の藥医門の門前には大きな石を積み上げて造られた石壁に縦・横30cm位のタイルを10枚ほど張り合わせて作られた縦60cm横150cm位の大きさの陶板石に廉太郎の生い立ちが書かれた説明板があり、右側には廉太郎の半身像の写真、そして左側の上段には竹田で“かっけ”の療養をしていた廉太郎が、大分に住む母親に明治30年8月に書き送ったという手紙も添えられていた。

両側を土塀に囲まれ、門柱に「瀧 吉弘」と表札のかかった瓦葺き切妻屋根の藥医門をくぐり、正面の式台を上がると右手に受付があり、そこで入館料300円を払い主屋を見学した。ここには六畳間が四部屋あって、ガラスのショーケースの中には廉太郎直筆の楽譜や手紙等貴重な資料が多数展示されていた。そのあと縁側を通り、少し大きな庭石の上に並べられていた下駄をはいて中庭の敷石を渡り別棟の白壁の土蔵に入った。広い板の間の蔵の中には尺八を吹く廉太郎の等身大のブロンズ立像が正面にあり、後ろの壁には廉太郎の年譜が架けられており、右手には大きなオルガンが置かれていた。その横に二階に上がる階段があり、登ると正面に大きな廉太郎の肖像画が架かっており、部屋の真ん中には右袖に引き出しがついた大きな長火鉢が置かれていた。
土蔵を出て中庭を散策すると古い井戸や石燈籠、そして大きな凝灰岩をくり抜いた洞穴があったが、これは昔、岩瀬家が漬物や炭や薪などを入れるために掘った洞だったそうだが、瀧家では乗馬好きの父・吉弘が馬小屋として使っていたという話だった。

きのうの午後、佐伯市の「国木田独歩館」の見学を終わって玄関を出る時に、館内を親切に案内してくれた佐伯市職員の女性から「明日はどちらに行かれるのですか?」と聞かれ、「明日は竹田の街と岡城に行く予定です」と答えると、「竹田に行かれるのでしたら折角ですから「瀧廉太郎記念館」の近くにある老舗の菓子舗・但馬屋に立ち寄って銘菓“荒城の月”をぜひ召し上がっていって下さい」と勧められた。

「瀧廉太郎記念館」でもらったA3サイズの「竹田市ガイド・たけた城下町散歩」を広げて見ると「菓子舗・但馬屋はここからは大変近い場所にあった。記念館を出て東側にある小さな凝灰岩の山を掘削して作られた15m程の「廉太郎トンネル」を抜け、更に東に5分程歩くと間口12間程の古い濃茶色のどっしりとした建物があり、一階は左右それぞれ2間程の腰板の上部に白壁が塗られ、あとは大きなガラス戸がはめられた家で、二階は外側の左右1間程が板壁に囲まれているが、あとは細い縦格子のガラス戸がはめられて屋根は黒い本瓦を載せた歴史を感じさせる重厚な商家があった。店頭には「菓子司の橘紋 但馬屋 荒城の月」と間隔をおいて交互に白く染め抜かれた縦が30cm、横が12m程の長い藍の暖簾が一階の軒下に架かっていた。

文化元年(1804年)創業の「旧岡藩御用菓子司・但馬屋老舗」の左側の入口から引き戸を開けて店内に入ると正面に大きな陳列ケースがあり、「銘菓・荒城の月、三笠野」を中心に焼き菓子、練菓子などを並べた店舗になっていた。
迎い入れてくれた若女将らしき人に「荒城の月」を店内で食べたい旨、話しをしたら気持ちよく了解してくれて折角だから「三笠野」もぜひ召し上がってくださいと、右手奥のテーブル席にかけるように勧めてくれた。私は店に入った時に右手が茶房になっていることにまったく気が付かず、席に案内されてから初めて、右手半分が“茶房・だんだん”になっていることがわかった。そこには幅1m長さ3m程の板目の美しいケヤキ一枚板の大きなテーブルが置かれ、それを囲むようにイグサの畳表が張られたベンチシートが置かれていた。

まもなく女性店員が盆に銘菓二品が盛られた塗り物の皿と、それに日本茶を添えて「どうぞお召し上がりください」と言いながらテーブルにおいてくれた。
透きとおるように白い「荒城の月」は直径が2・3cm位の饅頭で黒文字で半分に割って食べてみると中は黄身餡でもっちりとした食感で少し甘さを抑えた菓子だった。この菓子の白さの秘密は卵白を粘りが強くなるまで時間をかけて泡立てて作った“泡雪”で黄身あんを包んでいるためだとのことだった。
もう片方の「三笠野」は一枚一枚丁寧に焼き上げた生地で自家製のこしあんを三日月型に薄い皮で巻いただけのシンプルな菓子だったが、これも甘さを抑えた上品なあんと香ばしい皮との組み合わせが絶妙に老舗の味を引き立てていた。
二品とも文化元年の創業以来、岡藩・藩主に献上していた由緒正しい但馬屋の銘菓だそうだ。蛇足だが、美味しいお茶と老舗の銘菓を「茶房・だんだん」でご馳走になって勘定場で支払った金額は一つ130円の菓子2個分の260円だった。

「但馬屋」を出た後、歴史の道・殿町武家屋敷通りを東に歩き、古き良き時代の竹田の街並みを見るために殿町の武家屋敷跡に向かった。
豊後竹田は昔、単なる農村に過ぎなかったそうだが、文禄3年(1594年)に岡藩、初代藩主・中川秀成が岡城の大改修をする時に路を京都にまねて碁盤状に街造りをしたので今でも整然とした小路が残っており、中央の低地には商人、町人を住まわせ、その外側に寺院を配し、岡城に連なる丘陵には武家屋敷を配置するなど新しい城下町を造成させたそうだ。

殿町武家屋敷跡には今でも土塀や白壁、藥医門が残る北条家、長尾家などが昔のままの姿で残されている武家屋敷もあったが、今でもその末裔が住んでいるか、あるいは代替わりをして新しい方々が住んでいるため、屋敷の中を見学することは出来なかったが、竹田市が武家屋敷通りの入り口に、平成2年(1990年)に建てた「竹田創生館」は昔の建物を忠実に再現して造られ、瓦を載せた茶色の土塀、そして瓦葺き切妻屋根の武家屋敷の重厚な構えの藥医門をくぐると屋敷の母屋があり、無料で内部に入ることが出来た。
式台を上がった玄関次の間の六畳ほどの部屋には2領のレプリカの武将の甲冑が展示されており、襖側には二台のショーケースがあったが、中には竹田市の観光マップなどが収納されていた。その隣の十二畳ほどの大きな書院造りの部屋には同じレプリカの立ち姿の武将の甲冑が5領横に並んでおり、その前には家紋入りの黒光りのする葛籠(つづら)に腰掛けた姿の甲冑が4領展示されていた。
「竹田創生館」を出た後、武家屋敷東側の岩山の壁に、人目にふれぬよう岩をくり抜いて造られた「キリシタン洞窟礼拝堂」の外観をカメラに収めた後、いったん車を取りに「トラベルイン吉富」に戻り、その足で岡城に向かった。

広瀬神社の脇から緩い登り坂の山道を少し走り15m程の短いトンネルを抜けると岡城の広い駐車場が見えてきた。そこに車を停め、受付で入場料300円を払うと栞型の木札を模した“登城手形”と岡城の歴史や城内の絵地図が書かれた“小さな巻物”をくれた。観光地でのこんな小さな気配りが旅をする者にとっては気持ちを和やかにさせてくれる嬉しい入場券だ。つま先上がりの登城道を大手門跡に向かって歩き始めたが途中、急な坂や階段もあり結構息が弾んだ。

慶長元年(1597年)豊後の國、岡藩初代藩主・中川秀成によって築城された岡城は標高325mの天神山に築かれた山城で「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城」とも呼ばれ、大手門から本丸までの石垣群が特徴で世に難攻不落の城といわれていたそうだが、明治維新後、廃城令によって城内の建造物はすべて破却され、現在は高く積み上げられた堅固な石垣だけが残された城だった。
大手門の先、貫木門跡辺りからは岡城では一番美しいと言われる三の丸の70m程の見事に積まれた高石垣の石積みを見ることが出来、西の丸東門跡の石段を登りきると急に視界が開け二の丸跡の草原の台地に出た。二の丸跡には1m四方程の花崗岩の台座の上に大きな石に腰掛けて九重連山を背中にして豊後の山並みを眺める廉太郎のブロンズ像が見晴らしの良い場所に置かれていた。竹田出身の作曲家・瀧廉太郎の代表作「荒城の月」はこの荒廃した岡城がイメージになっているそうだが、その横には自然石に彫られた作詞家・土井晩翠直筆の「荒城の月」の詩碑も置かれていた。

二の丸跡を見学し、ぼつぼつ駐車場に戻ろうと思っていた時、先程まで灰色の雲が覆っていた空から雨粒が少し落ちてきた。やがてそれが雨になり、家老屋敷跡を通る頃には本降りになってきた。両側を高い石垣に囲まれた近戸門跡(城と城下を結ぶ3つの口(ほかの二つは大手口、下原口)のひとつ)を通り駐車場に戻ってきた時には大分濡れてしまった。

時間は2時半を少しまわっていたが、豊後竹田の城下町の観光も予定していた所を一応は回れたし、雨も降ってきたので、今晩宿泊する予定の「大分県マリンカルチャーセンター」に向かう事にした。
宿は佐伯市東南端の日向灘の元猿海岸に面したところにあるというので、地図を広げてみると竹田の町からはJR豊肥本線(愛称 阿蘇高原線)に沿って大分方面に国道502号線で東に走り、臼杵市役所の近くで国道10号線を右折、そのまま南下すると元猿地区に出るらしい。念のためナビに目的地を設定し、豊後竹田が誇る難攻不落の名城・岡城を後にした。


上段の写真 瀧廉太郎記念館
中段の写真 武家屋敷・北条家
下段の写真 岡城西の丸附近
 

バゴダ

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 6月24日(土)19時52分54秒
  河口画伯の最新作“ シュエモードー・パヤー ”が、12期のホームページに掲載
されています。ミャンマーの仏塔バゴダです。とても高さが114mもあるとは
想われません。
私はミャンマーには行ったことがないのですが、徳島市の眉山の頂上付近でバゴダ
を見たことがあります。これは、徳島出身の戦死者の多くがビルマ(現ミャンマー)
だったため、徳島県ビルマ会が建立したものだそうです。

河口画伯の“ シュエモードー・パヤー ”は下のURLをクリックして下さい。

http://chk12.info/frndg2/pkup7.html

 

九州路 城下町臼杵から佐伯・竹田まで

 投稿者:具志  投稿日:2017年 6月19日(月)16時31分21秒
  ☆6月12日投稿した文中で臼杵城の前身「丹生島城」の送り仮名が間違っていましたので差し替えさせていただきましたのでよろしくお願いいたします。

12月13日(木)午前9時半頃、臼杵市のやや北部に位置し、大分県の史跡に指定されている臼杵城を訪ねた。群雄割拠で揺れる戦国時代にキリシタン大名・大友宗麟によって築かれた丹生島城(にうじまじょう・臼杵城の前身の城)は高さ20m程の小高い丘の上に建てられた山城で、外濠に架かる石橋・古橋を渡り城内に入ると道はすぐ左に折れ、突き当りの城の石垣を右に曲がると外濠から積み上げられた急勾配の城壁の上に重量感のある瓦屋根を載せた眩しい位の白い漆喰の塀が畳櫓まで続いていた。
塀に沿って二之丸へと続く幅2m程のゆるい階段状の登城道・鐙坂(あぶみざか)を登りつめると左手に2002年に復元された大門櫓、そしてそのすぐ先に畳櫓を見ることが出来た。畳櫓をくぐり中に入ると明治の廃藩後、天守以下建物は全部取り壊され、現在では広いグラウンドと西南の役で薩摩藩との戦いで犠牲になった臼杵藩士の霊を祀る「臼杵護国神社」そして「臼杵市営弓道場」があり、現在は臼杵城址・臼杵公園として、ソメイヨシノが1000本程植えられた桜の名所となっており、桜の咲く頃には県内でも有数の花見スポットとして、市民の憩いの場所になっているそうだ。

城を出てから車で西南西に20分程走り、臼杵市八町大路(中央商店街)の西の端、臼杵川近くにある龍源寺に向かった。ここは「関ケ原の戦い」の軍功により慶長5年(1600年)「郡上八幡」から「臼杵」に転封(てんぽう・幕府から領地替えを命じられて移ること)した臼杵藩主・稲葉貞通の創建で京都にある浄土宗総本山知恩寺の末寺だそうで、寺の殆どが西南戦争で焼失したが三重塔と山門は幸いなことに戦火を免れたそうだ。
山門を入るとすぐ左手に21.8mの三重塔が立っていたが、臼杵の名工と呼ばれた高橋団内が京都や奈良の木造古塔を参考に10年もの歳月をかけて安政5年(1858年)に完成させたそうだが、塔の内部には聖徳太子の像が安置されていることから「太子塔」とも呼ばれており、大分県指定文化財に指定されているそうだ。

龍源寺を出てから国道502号線を臼杵川に沿って30分程西南に走り、臼杵市深田丘陵の山裾にある「臼杵石仏公園」に向かった。
ここは国宝の臼杵石仏群を中心に豊かな自然や農村集落の風景が広がるのどかな公園で四季折々の花が咲き、季節ごとに違った顔を見せてくれる場所だそうで、石仏群入口で拝観料540円を払い中に入ると大きな木々に囲まれた山道に次々と石仏群が現れた。道はきちんと整備されているので歩きやすく、山道という感じはあまりしなかった。
露出した凝灰岩に刻まれた摩崖仏(まがいぶつ・岩壁に彫られた石仏のこと)は四群に分かれていて、地名によって「ホキ石仏第一群」「ホキ石仏第二群」「山王山石仏」「古園(ふるぞの)石仏」に分類されており“ホキ”というのは臼杵地方の方言で“崖”という意味の地名だそうで、ここには60体以上の石仏があり、うち59体が国宝に指定されているそうだ。

地元に伝わる伝説によると、臼杵石仏は今から1400年前、(飛鳥後期から奈良時代)真名長者(まなのちょうじゃ)の名で親しまれた「炭焼五郎」という長者(富裕者に対する呼称)が亡くなった娘の供養をするために都から大勢の仏師を招いて彫らせたと言われており、特に「古園石仏の大日如来像」は日本の石仏の中でも最高傑作の一つと言われているそうだ。

「臼杵石仏公園」からは国道502号線でJR上臼杵駅に戻り国道217号線で津久見市の緑豊かな宗麟公園にある戦国武将・大友宗麟のキリスト教式の墓に立ち寄った後、佐伯市にある佐伯城に向かった。

城は佐伯市街のほぼ中央、標高144mの八幡山の高台に慶長11年(1606年)豊後・佐伯藩、初代藩主・毛利高政によって築かれたそうだ。
第3代藩主・高尚の時に佐伯城の麓に造られた三の丸御殿、櫓門前には午後3時半頃に着いた。
佐伯城の天守閣は築城後ほどなく火災によって焼失し、わずかに残った城内の櫓、土塀なども臼杵城と同じように廃藩置県の際に取り壊され、現存する建築遺構は三の丸御殿の櫓門だけだが、城山を背景にどっしりと構えた櫓門は三の丸御殿の正門として寛永14年(1638年)に創建された江戸時代の城郭建築を色濃く残す歴史的建造物だそうだが、このほかにも城跡には現在でも石垣のほとんどが残っているそうだ。

三の丸御殿・櫓門から城山の麓に沿って養賢寺まで東に続く情緒豊かな石畳の道には毛利家12代の城下町の面影が残されており、「日本の道100選」にも選ばれており、今日では「歴史と文学の道」と呼ばれているそうだ。
佐伯城・三の丸御殿の櫓門を出て、石畳の道を左手に進むと左右を白い土塀に囲まれ、石段に沿った両側につつじの植え込みがある10段程の広い石段を登った所に立派な藥医門を構えた「茶室・汲心亭(きゅうしんてい)」が建っていた。
石段を登り、門の前に立って、建物の中を覗いて見ると、門から先には白砂利が敷かれた庭に1m四方ほどの丸みを帯びた大きな平たい敷石が七つほど正面の玄関まで続き、松やカエデの樹々に囲まれた静寂に包まれた佇まいの木造平屋建て、屋根は銅板葺きの茶室の本館玄関を見ることが出来た。ここは茶会、俳句会、生け花会、その他の文化活動をする憩いの場所になっているそうだが、普段でも有料だが中の茶室で美しい石庭を眺めながらお茶(抹茶)を楽しむことが出来るそうだ。

更に「歴史と文学の道」を東に進むと左側に門の両側に瓦屋根を載せた漆喰塀に挟まれ、2本の先の尖った丸柱に横木を渡した冠木門(かぶきもん)の武家屋敷が眼にはいった。門の前に置かれた大きな石に「国木田独歩館」と書かれていた。ここは元佐伯藩の上級武士・坂本家が3代藩主、毛利高尚の時代に当時、佐伯湾に流れ込む番匠川の河口にあった毛利藩の別荘「お浜御殿」の一部を天保10年(1839年)に、ここに移築した際に毛利家から譲り受けた建物で、屋敷は当時平屋建てだったがその時に二階建てにしたそうだ。

この家は明治の文豪・国木田独歩が英語、数学の教師として勤めた夜間学校・鶴谷学館(つるやがっかん)の館長だった坂本家の末裔・坂本永年の屋敷で、明治26年10月から翌27年7月までのわずか1年足らずではあったが、独歩が弟・収二と二人でこの建物の主屋の二階に下宿していた家だそうだ。
正面の玄関から中に入るとすぐ左側に受付があり、ここで入館料200円を払い館内に入った。ここは「独歩館」に改装する前は坂本家の台所や風呂場、手洗い所があった場所だったそうだが、現在はこの右手奥に二階に上がる階段があり、その横に国木田独歩や佐伯市を紹介するTV室があり、その前には武将が戦の時に戦場の本陣で座る本陣椅子を模した折りたたみ式の椅子が5脚ほど並べてあった。
その先の渡り廊下を渡ると白い漆喰壁の土蔵があった。ここは現在「資料展示室」となっており、一階の8~9帖程の広さの部屋の壁には独歩直筆の数々の「色紙額」が架けられ、ガラスのショーケースの中には、登山好きの独歩が二階の部屋からよく眺めていたという佐伯市の東南の方向にある山で、2度ほど登山したというお気に入りの山・元越山(もとごえさん、高さ582m)を書いた「元越山の登る記」の原稿や明治35年(1902年)にかかれた「非凡人」の初版本の表紙の絵などが展示されており、二階に上がるとガラス扉の大きな書棚があり、中には文豪・独歩に関連する書籍、そして数々の作品が棚一杯に並んでいた。館内を親切に案内してくれた佐伯市・職員の若い女性の話しによると独歩の書籍の殆どが平成15年の「国木田独歩館」の開館時に東京・神田神保町の古書店で買い求めたとの話しだった。書棚の前には小さな円卓が2卓あり、その周りには椅子も置かれ、書棚の本をそこで閲覧できるようになっていた。

主屋に戻り、階段を二階に上がると部屋が3つあり、中庭の小さな蓮池が見える手前の3帖の部屋が弟・収二の部屋で真ん中の3帖が共同スペースで「歴史と文学の道」側奥の部屋、窓側に“肘掛け欄干”のついた8畳間が独歩の部屋で窓側の右隅に座布団が敷かれ、その前に引き出しがついた小さな勉強机があり、机の上には右に硯箱、左側に小さな傘付きの電気スタンドが載っていた。
欄干に腰掛けて外に目を落とすと、つつじや松が植えられた質素な武家屋敷の庭だったが木々の枝もきれいに手入れされ、庭も掃き清められていて大変美しい眺めだった。

「歴史と文学の道」の一番東には佐伯藩・藩主であった毛利家の菩提寺、臨済宗妙心寺派の「養賢寺」があり、中に入ることは出来なかったが、瓦屋根を載せた漆喰の白壁の美しい塀に囲まれた銅瓦葺きの本堂の裏手には、歴代の藩主たちが眠る五輪塔が静かに佇んでいるそうだ。

佐伯城址の南側、往時をしのばせる石畳の武家屋敷の道「歴史と文学の道」をのんびりと散策し、養賢寺まで来た頃には時計も5時を少しまわっていた。
今晩は豊後竹田に宿をとったので、少し内陸に入るが国道10号線から502号線に乗り継いで竹田市にある「トラベルイン・吉富」に向かった。


上段の写真 臼杵城址
中段の写真 古園石仏、大日如来像
下段の写真 国木田独歩館



 

毒蝮三太夫放送

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 6月15日(木)06時16分34秒
  具志さん、詳細なレポートありがとうございました。
私が一昨年大分を訪問した折に行ったところとダブっていますので
とても懐かしく拝見しました。その時、佐伯には行かなかったので、
機会をみて行ってみようと思っているところです。

さて、6月8日に大森の「高齢者の居場所」に毒蝮三太夫が来るという
記事を投稿しました。

予定どおり、放送は終りました。想定どおり、参加者は殆どが女性で
志村君は貴重な男性参加者ということでインタビュー―を受けたよう
です。想定外だったのは、当日、毒蝮三太夫の高校時代の同級生という
男性と毒蝮三太夫のファンと称する同い年の女性が来ており、毒蝮三太夫
の関心もそちらに重心をかけてしまいました。しかし、志村君は、毒蝮三太夫
から、「紙芝居のおとっつあん」とか「冒険ダン吉」とか言われた何回か
登場していました。
私は、都内に居なかったので、放送を聞くことはできなかったのですが、
帰京してから、インターネットラジオの「radiko」のタイムフリー
(一週間で消去されますが過去の放送が聞けます)で、聞きました。録音
も録ってありますので、機会があればお聞かせしたいと思っています。
 

毒蝮三太夫

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 6月 4日(日)19時37分15秒
編集済
  三つの“ゆう”を紹介します。

① 一番目は「With 遊」:5月いっぱい、志村+αが「春の展示会」
  を開催していた東京荻窪の喫茶店です。

② 次は「ゆうcafé」:お馴染みの根津の隠れ家です。

③ そして最後は、“遊とぴあ”:これは、砂岡が、二年前から、
  東京大森で「高齢者の居場所つくり」をやっているところの
  名称です。

 パソコン教室や、映画鑑賞、麻雀教室などの活動を通じて、
 高齢者がいつまでも元気で暮らせるまちづくりをしています。

 助成金の申請や団体の経理・総務業務も一手に引き受けています。

 この場所に、志村君の力を借りることとし、月に一回、

 紙芝居の上演と映画解説をお願いしています。

 大田区のホームページに活動紹介を定期的に行っていたところ、
 この活動がTBSの目にとまり、

『 毒蝮三太夫のミュージックプレゼント 』
(TBSラジオ(AM954キロヘルツ・FM90。5メガヘルツ)

で放送されることになりました。

 放送時間 は、平成29年6月8日 木曜日  午前11時22分~11時38分の
 生放送です。

 この放送には、当然、砂岡も立ち会う立場にありますが、6月7日~9日まで、信州に
行く用事があり不在です。

 そこで、志村君に立ち会いをお願いしたところ、快く引き受けてくれました。

 志村君の声が聴けるかもしれません。お時間のある方は、TBSを聞いてみて下さい。

 残念ながら、この放送は関東ローカルなので遠方では受信できません。

 大田区のホームページは下記クリックで開けます。

(上段)毒蝮三太夫生放送
(下段)“遊とぴあ”で紙芝居を熱演

http://genki365.net/gnko05/mypage/index.php?gid=G0000570

 

5月の集い(第二弾)

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 5月29日(月)21時39分17秒
編集済
  5月27日(土曜)に、まず、荻窪の「春の展示会」会場「With 遊」に集合です。
5期の岡村先輩(「東京を描く市民の会」役員)も駆けつけて下さりました。

今回、正勝兄の川柳に素敵な絵を添えた色紙を出展してくれた香洋子夫人、
いつも出展している河口君、内田君、近藤君、胴元の志村君、それに
砂岡の8人が集まりました。

志村君とコンビを組んでいる童話作家の山庭さくらさんのお顔も拝見できました。
展覧会のあとは、同期の隠れ家的存在の根津の「ゆうcafé」へ。

ここで、若尾君、及川君も合流していつもの話になると思いきや及川君から
現役時代の秘話の一部が披露され、大いに盛り上がりました。
秘話の内容については、直接お尋ね下さい。

(上段) 「With 遊」で
(中段) 「ゆうcafé」(志村画伯の「七福神」の前で)
(下段) 「ゆうcafé」(河口画伯の「デンマークの農家」の前で)

http://chk12.info/

 

関ヶ原古戦場巡り

 投稿者:高橋俊次  投稿日:2017年 5月25日(木)17時54分9秒
  猛暑となった20日、念願の関ケ原古戦場巡りが実現しました。
名古屋からは近場ですが、これまで訪れる機会がありませんでした。
やっと実現し、戦国歴史絵巻を頭に描きながら歩き回りました。
行程上、体力上、西軍裏切りのあの小早川秀秋陣地の松尾山には
行けなかったのが残念でしたが、天下分け目の地を歩き、
関ヶ原合戦を"楽しみ"ました。ただ、汗ダラダラの1日でした。
8月に岡田准一の三成役で映画「関ヶ原」が公開されるようですが
訪れる人が増えるかも知れませんね。
写真上は三成陣地の笹尾山、中は敵中突破で有名な島津義弘陣地、
下は悲劇の大谷吉継陣地。
 

三社祭り

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 5月21日(日)19時27分19秒
  15年振りに浅草の三社祭りに行ってきました。
外国人が凄く増えていましたが、担ぎ手や
お囃子は日本人で三社の風情は残っていました。
5月とは思えない夏日で神輿を担いでいる人達は
大変だろうなといらぬ心配をしながら日陰から
見ていました。
あまり暑いので、休憩にJAZZライブのパブ
(通常は夜間のみライブですが、この日はマチネー
ということで昼もやっていました。)に寄って
一休み。バンドは南アフリカ人のボーカル、
パーカッション、アルトサックスのトリオで
乗りの良いアフリカンリズムが心地良かった
です。三社ということもあり、お客さんは、
ディスコもどきの態(熟女、シニア男性ばかり
ですが)で盛り上がっていました。

(上段) 雷門前
(中段) 浅草寺境内
(下段) HUB浅草店

http://chk12.info/

 

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