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三社祭り

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 5月21日(日)19時27分19秒
  15年振りに浅草の三社祭りに行ってきました。
外国人が凄く増えていましたが、担ぎ手や
お囃子は日本人で三社の風情は残っていました。
5月とは思えない夏日で神輿を担いでいる人達は
大変だろうなといらぬ心配をしながら日陰から
見ていました。
あまり暑いので、休憩にJAZZライブのパブ
(通常は夜間のみライブですが、この日はマチネー
ということで昼もやっていました。)に寄って
一休み。バンドは南アフリカ人のボーカル、
パーカッション、アルトサックスのトリオで
乗りの良いアフリカンリズムが心地良かった
です。三社ということもあり、お客さんは、
ディスコもどきの態(熟女、シニア男性ばかり
ですが)で盛り上がっていました。

(上段) 雷門前
(中段) 浅草寺境内
(下段) HUB浅草店

http://chk12.info/

 
 

春の懇親会レポート

 投稿者:高橋俊次  投稿日:2017年 5月 8日(月)23時11分0秒
  ◯ 粒揃いの作品群

12期メンバーによる絵画等作品展が東京・荻窪のカフェ「with遊」で開かれており
6日名古屋から参加しました。当日は8人が集まりました。顔ぶれは昨日の砂岡君
投稿の写真でお分かりの通りです。13期の小須田さん、前田さん(いずれも旧姓)が
いつもと違う顔ぶれですね。前田さんは一番左の女性をしばらくはカフェの人だと
思っていたと告白。途中で紹介されて黎子ちゃんとわかり、えっーということにな
りましたが。卒業以来の顔合わせなので、当たり前田のクラッカー!(古い)という
訳でした。
さて作品群ですが、これはもう荻窪をのぞいてもらうしかありませんね。
ミャンマーなどベテラン河口作品、昭和が立ちのぼる志村絵画、きりりと締まった
近内日本画、一層精緻さを増した米山彫師、そして今回は正勝夫妻の句と絵の
展示が厚みを添えました。ただ小山作品がなかったのが寂しかったですね。
ぜひwith遊を訪れて下さい。
カフエではランチとコーヒーを楽しみながら談笑に花が咲きました。

◯ ジャズライブで盛り上がる

午後は都合で予定より人数が減りましたが、砂岡、河口、前田、高橋の4人が
新宿の老舗ジャズライブハウス「ピットイン」に向かいました。
この日は放研記念集会で演奏したことがあるピアニスト板垣光弘さんがリーダーの
8人編成バンドでパワーとパンチの効いた熱い演奏を展開していました。
砂岡君は板垣さんと交流があり、この日も15年前の記念集会の写真を
プレゼントして喜ばれていました。
3年前にも同じピットインで7人の同じメンバーで演奏をしたということですが、
今回は8人。誰が増えたのかと言いますと写真真ん中にいる美人フルート奏者の
中島  心さんです。美女ですねー、演奏もすばらしい!。
河口君は終了後、早速新作CDを購入、サインを貰いました。
当方もI. musicで中島  心アルバムを探し当て、いまそれを聴きながらこれを
書いています。イヤー、ライブに行って良かった。
前田さんも夫はジャズなら聴いてもいいよ、と言っているので、今度誘って
また来てみますと言っていました。紘子さん、夫婦ジャズ、いいですねー。

◯ 新宿で懇親会そして神田へ

夕方5時からは新宿の、エーと店の名前はいま思い出せませんが、魚と
こざっぱりした料理を食べながらビール、ワインで懇親会がはじまりました。
出席はライブ組に具志、斎藤、近内さんが加わり総勢7人。
話しはあっちへ行ったりこっちへ来たりいろいろでしたが、でもやはり多いのが
病気、体調、家族の動向ですね。特に今回は葬儀、墓論議に大いにハナガサイタ!!ようです。
でもまあ、いろいろ何でも話ができるうちがハナですから、やはり時々会って
みんなで楽しく話しをしましょう。
懇親会が終わり、それぞれ帰る方向別に分かれ散会しました。が、新宿駅に
向かった斎藤君を除いて地下鉄改札口でどういう訳かばったり。
具志君から神田へコーヒー飲みに行こうとの提案が出て反対者なく、
神保町を目指しました。目指すは具志君超こだわりの「サボール」、
連休でオープンかどうか心配されましたが、心配どころか超満員で
入れず、一旦は諦めましたが6人全員は無理としても3人なら少し待てば
何とかなりそうということで、具志、河口、高橋と3人が席を確保しました。
地下、中二階のある雰囲気のある古い喫茶店で美味しいコーヒー飲みながら
どういう訳か骨壺の話しをが出ていましたね(笑)。
帰りは具志君案内で裏通りをあちこち歩き、あのミロンガの前も通ったり
しながら、小川町のホテルにたどり着きました。
具志、河口両君には夜遅くまでありがとうございました。

てな訳で、久し振りの懇親会の1日が終わりました。レポートをと砂岡君言われ
いろいろ書き連ねましたが、一緒に遊んでいただいた皆さん、本当に有難うございました。
ではこれにて終わります。
写真はライブの時だけ遠慮がちに撮ったものを載せます。俊。
 

5月の集い(第一弾)

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 5月 7日(日)10時14分52秒
  5月6日(土曜)荻窪で行われた「春の展示会」(12期芸術家集団が出展)で集まりました。
後日、俊ちゃんから詳細レポートがあると思います。楽しみにしていて下さい。

http://chk12.info/

 

春3題

 投稿者:河口友彦  投稿日:2017年 4月29日(土)20時34分49秒
編集済
  春満開!!
一気に花々が開花して気分爽快ですね。

① 佐倉のチューリップフェスティヴァル
② アンデルセン公園の八重桜
③ 秩父・羊山公園の芝桜

最近の写真より・・・・河口友彦撮影 
 

回想録 九州路海岸線の旅 大分から湯の町・別府、坂道の城下町・杵築(きつき)まで

 投稿者:具志  投稿日:2017年 4月27日(木)18時25分10秒
  2012年12月12日(水)JR大分駅北口の「東横イン・大分駅前」を9時過ぎにチェックアウトして近くの「ゆうちょ銀行・大分店」に立ち寄り、いつもの通り定額貯金をして局印を押して貰った。中央局を出てから近くにある府内城(大分城)を訪れたが安土桃山時代に建てられたという天守は江戸時代に火災で焼失し、今は天守台しか残っていないという事だったので城内には入らず外濠に沿った大手門と宗門櫓(しゅうもんやぐら)を見ただけで昨日走ってきた国道10号線を別府湾に沿って10分ほど西に走り、マリーンパレス水族館「うみたまご」の駐車場に車を停め、「高崎山自然動物園」に向かった。

国道10号線をまたぐ横断歩道橋を渡るとすぐにチケット売り場があり、入園券510円を払い木立に囲まれた、なだらかな遊歩道を15分程歩き、最後の石段を10段ほど登ると標高628mの高崎山の麓にある万寿院別院の「サル寄せ場」に着いた。
周囲を雑木林に囲まれた“寄せ場”は500坪程の広さがあり、昭和28年に開園した頃は餌をまく時に“ほら貝”を吹いて山からサルを呼び寄せたそうだが、当時ここに集まってくるサルは280頭くらいだったそうだ。今では750頭前後の群れが二グループ、B群(730頭位)とやや数が多いC群(790頭位)がいるそうで、午前中に勢力の強いC群、午後からはB群が山から下りて来るそうで、私が着いた11時頃にはサルの数も少しまばらだったが、「サル寄せ場」にいた二人の係員が山に向かって「おーい おーい」と大きな声で2・3度叫びながら、手に下げたバケツの中から餌の小麦を取り出して、場内を歩きながら蒔きはじめると、まもなく沢山のサルの群れが山から下りてきて、あっという間に“寄せ場”は高崎山のサル軍団でいっぱいになった。

それから1時間ほどたっただろうか、猿の群れも少し分散してそれぞれが毛繕いをしたり、若いサルたちが追いかけごっこをして遊んでいた時に、先程の係員が少し小型のリヤカーを一人が引き、もう一人の係員が荷台にのせた四角い網籠の横にある蓋を開けたり閉めたりしながらサルの大好物の小さく刻んださつま芋をまきながら“寄せ場”の中を走り回ると場内ではサル達のものすごい餌の争奪戦が始まった。それでも少し時間が経つと餌の取り合いも少し落ち着き、子ザル達もどうやら餌にありつけるようになっていた。
しばらくサルたちの愛らしい仕草をカメラに収めたり、万寿院別院の庭を散策したりした後、駐車場に戻り、温泉都市別府に向かった。

別府温泉には50年程前に来たことがあり、当時「別府地獄めぐり」をして“海地獄”“血の池地獄”“白池地獄”などを見物したが“海地獄”は透きとおる様なコバルトブルーで美しかったこと。“血の池地獄”は赤くどろどろとした池だったことは今でもよく覚えており、再度温泉巡りをする気持ちはなかったが、今回は明治12年の創業といわれる歴史ある市営浴場“竹瓦温泉(たけかわらおんせん)”に是非行ってみたいと思い、古くて細い温泉街の幾筋もの路地を走り、やっと唐破風造り二階建ての立派な屋根の“竹瓦温泉”を探し出すことが出来た。ここは建築当時、竹で屋根を葺いており、その後、昭和13年に改築された時から瓦葺きになったことから「竹瓦」の名がついたそうで、入浴料が100円、そして浴場内に隣接する砂湯が1000円だそうだ。
私は折角別府に来たのだから是非入ってみたいと思い駐車場を探したがこの辺は旧三業地だったようで、近くに車を停めるような場所もなかったので残念ながらここでの入浴は諦めて国道10号線と213号線を乗り継いで35km程北にある室町時代初期に建てられたという杵築城(きつきじょう)に向かった。

八坂川の河口にある台山(だいやま)の山上に築かれた杵築城は北に高山川、東に守江湾(もりえわん)に囲まれた天然の要害だったそうで現在では山上が城山公園として整備され、天守台跡には三層の天守が建てられ、天守には歴代杵築藩主の遺品などが展示された資料館と海と川に囲まれた杵築市内を眺められるビュースポットとしての展望台を兼ねて一般に開放されていた。

かねてから杵築の街には是非一度行ってみたいと思っていたので、城山公園を出た後、車で西に5分程走り「番所の坂」の近くにあった「杵築市児童館」の駐車場に車を停め、「北台・武家屋敷通り」を散策することにした。中でも「酢屋の坂」の坂上の角地にあった「大原邸」は江戸の歴史を感じさせる素晴らしい建物で、大きな長屋門をくぐると見事な茅葺き屋根を載せた間口の広い玄関、紋入りの畳の縁(へり)にも、そして広くて美しい回遊式庭園にも上級武士の暮らしを垣間見ることが出来る素晴らしい建物だった。
「大原邸」に隣接してひっそりと佇(たたず)む能見家(のうみけ)は杵築藩主であった松平家の出身地だった三河の國(愛知県)・能見(のみ)を姓にとった藩主の重臣で唐破風造りの屋根を載せた玄関を入ると屋敷内には玄関の間、上段の間が造られており、格式ある家柄の高さがうかがえる立派な建物だった。

北台の武家屋敷と商人の住む谷町通りをつなぐ「酢屋の坂」は土塀と石垣が印象的で石畳が非常に美しい坂道で、下りきれば谷町通りをはさんで「志保屋(店の屋号)の坂(しほやのさか)(塩屋の坂)」にさしかかる。
坂の名前の由来は谷町の商人と深い関わりがあったそうで、塩屋長右衛門は谷町から南台への坂の下で営んでいた塩屋(塩、酒、醤油などを扱っていた)をずいぶんと繁盛させた豪商でその後は谷町から北台への坂の下で今度は酢屋の商売を始め、坂はそれぞれの商いから「塩屋(志保谷)の坂」「酢屋の坂」と呼ばれるようになったそうだ。

その「酢屋」の堂々とした店舗も江戸末期に建てられたもので明治の末に味噌、醤油を営む「綾部味噌醸造元」として店を構えるようになったそうで、杵築を代表する二つの坂は向かい合うようにしていて、志保谷の坂を上る途中の左手には南台の武家屋敷、杵築藩家老の中根氏の隠居宅があった。中根邸を左に折れた先の左側には「きつき城下町資料館」があり、
館内には城下町杵築に関係の深い諸資料の展示と共に武家屋敷群、町家界隈などの江戸時代のジオラマの展示もあり、1階のロビーには300年以上も続き、毎年7月に行われる「杵築天神祭り」に使われるという豪華な御所車が展示されていた。

「きつき城下町資料館」から中根邸に戻り、南台武家屋敷通りを西に入り、一筋目を右に少し入った所に町家のある谷町に通じる“くの字型”に美しくカーブする石畳の階段の坂道があり、この白っぽい石畳は雨が降る夜はうっすらと白く浮かび上がり、薄暗い夜でもよく見えたことから「雨夜の坂」とも呼ばれて、いつの頃からか、この雨夜が変化して「飴屋」になったという説と、坂の下には元禄時代、初代は飴屋清兵衛と名乗る人物が実際に飴屋を営んでいた店があったことから「飴屋の坂」と呼ばれたという説もあり、今ではその両方が坂の名前の由来になったというのが通説となっているそうだ。

坂下から谷筋を西に進むと創業が江戸時代中期という「茶屋のとまや」があった。典型的な商家の店構えで瓦屋根の上にはどっしりとした歴史を感じさせる年代物の屋根付き看板が載っており、ガラス戸越しに店内を覗いて見ると三段の棚に並べられた沢山の四角い木の茶箱や大きな茶臼、そして店先に置かれた古い天秤、ガラスケースの陳列台の中には色とりどりの美しい急須を見ることが出来た。

道路を挟んだ向かい側には明治の時代から続いているといわれる大衆演劇場「きつき衆楽観(しゅうらくかん)」があった。現在の建物は大正時代の酒蔵を改装した2階建ての白い建物だったが、軒先には幾つもの赤い丸型提灯が下げられ、木戸口の左右には熱心な芝居ファンから贈られた贔屓(ひいき)の座長や花形役者の名前が染め抜かれた色とりどりの幟が杵築の谷筋を吹き抜ける師走の風を受けて賑やかにはためいていた。

「きつき衆楽観」を外側から見物をした後、谷町通り(町家)から北台に通じる坂「富阪」を上り、坂上から右に折れ、「ひとつ屋の坂」そして昔は多くの紺屋(こうや・染物屋)が商いをしていたといわれている「紺屋町の坂(こうやまちのさか)」、「岩鼻の坂」を北台の坂上から眺めた後、江戸時代、杵築の城下町を象徴した美しい石畳の坂道「酢屋の坂」から商家の建ち並ぶ谷町を境にして南台に上がる「塩屋の坂」、二つの坂が織りなす素晴らしい直線美の景観をあらためてカメラに収めた後、九州豊後路の小京都、坂道の城下町・杵築の街を後にした。

 上段の写真 高崎山・猿の餌場
 中段の写真 塩屋の坂より酢屋の坂を望む
       坂下の右は綾部味噌醸造元
 下段の写真 茶屋 とまや



 

河口画伯の最新作

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2017年 4月 5日(水)21時52分3秒
  CHK12に画伯の最新作“ エーヤワディー川の中洲(ミャンマー) ”
が載っています。
開いてみて下さい。

http://chk12.info/

 

合同展のご案内

 投稿者:河口友彦  投稿日:2017年 4月 1日(土)19時47分11秒
  志村さんから掲題のポスターが届きましたので、ご案内いたします。正勝さんの川柳が入っていませんがご容赦ください。5月2日から5月31日迄です。ご都合を付けて是非ご来場ください。  

川柳で参加

 投稿者:suzukimasakatu  投稿日:2017年 4月 1日(土)16時21分31秒
  *五月に、在京の画伯、彫師の皆さんが合同で展覧会を開催するという話を志村さんから聞き、ものは試しと「川柳で参加できないものか」と志村さんに伺った所、快く「OK}との、御返事をいただきました。ありがたいことです。さっそく制作に取り掛かっています。最近の私は、時々、川柳に「俳画」のような画を添えています。
川柳は私が作り、字と画は家内が描くと云う夫婦共作としています。「夫唱婦随」の川柳版です。
川柳が主か。画が主かという失礼な疑問を発する御仁も無きにしも非ずですが、
あくまで主は川柳です。

・追伸 4月20日から25日まで、大阪の梅田の画廊で開かれる私の知人の展覧会のポスターを志村さんに描いてもらいました。
ポスターも立派な絵画ですね。額に入れて知人にプレゼントします。
それにしても、私の川柳が箱根の山を越して東京で披露できるとは嬉しいかぎりです。     鈴木正勝 拝


 

伊東夫妻と滑りました

 投稿者:高橋俊次  投稿日:2017年 3月11日(土)22時08分4秒
  今シーズンスキーの2月は恒例の志賀高原ツアーに続き、久しぶりに
ニセコスキーに参加しました。今回はニセコビレッジエリアの宿泊で
ホテルがちょいとシャレていて雰囲気のあるスキー滞在でした。
3月は11期の伊東祐一郎、樹子夫妻と蓼科のブランシュたかやまスキー場で
滑りました。伊東さん馴染みのペンションに泊まり遅くまで一杯やりながら
談笑しました。樹子姉とは何年か前、八ヶ岳でお会いして以来です。
樹子姉は今シーズンすでに10回以上もブランシュに来ているという
スキーマニアです。ご一緒できてよかったです。
私の今シーズンのスキーライフはこのブランシュでラストにしました。
来週からはテニスを頑張りたいと思います。
アベ政治のストップ活動もいろいろありますね。俊。
 

回想録「九州路・海岸線の旅 東京から門司、中津、大分まで」

 投稿者:具志  投稿日:2017年 2月25日(土)23時06分0秒
  [雑感]
去年の10月下旬に回想録「日本一周海岸線の旅」で山陰路を書き終えて、残る九州路、四国路の旅行記を年が明けたら書きはじめようと思っていましたが、年末に菊池君の訃報、そして北上君の50年ぶりの札幌の大雪の話題などを読ませていただき、年が明けてからは大相撲初場所で稀勢の里の初優勝と横綱昇進の話題で浮かれた気持ちでいるうちに2月も終盤を迎えてしまいました。
実を言えば、上方から始まったといわれる「恵方巻」を食べる風習は最近では全国的に広まっているようですが、今年の節分の時期に「九州路」を大分まで書き終えて、いざ掲示板に投稿する段階でその原稿を私の指先のたった一度の動きでパソコンからすべてを消失させてしまい、今日やっと改訂版を書き上げた次第です。今年は少しピッチをあげて書こうと思いますので、長文で稚拙な旅行記で恐縮ですが今年もよろしくお願いいたします。

回想録「九州路・海岸線の旅 東京から門司、中津、大分まで」

2012年12月9日(日)いよいよ今日は「九州路・海岸線の旅」出発の日だ。少し肌寒い朝だったが早めに家を出て府中・国立ICに向かった。中央自動車道は日曜日だったせいか渋滞もなく順調に走り、岡谷JCT、小牧JCTを過ぎ名神高速道路に入ってからも殆ど予定通りに走ることが出来た。今回の計画では九州路の玄関口、門司までは中央自動車道、名神高速道路、山陽自動車道を乗り継いで下関まで走り、下関からは国道2号線で関門トンネルを潜り、九州路に入る積りだったが、東京から下関までは1000km位あるので山陽自動車道のどこかで一泊するつもりだった。神戸JCTを過ぎ、山あいの道をしばらく走ったあと、時計を見ると3時を少しまわっていたので急遽、山陽姫路東ICで高速道を降りて「東横イン・姫路駅新幹線南口」に泊まることにした。

12月10日 山陽自動車道を山陽姫路東ICから岡山、広島、山口の3県を通り360km程走り、更に70km先の下関ICで高速を降りて国道2号線に出た。下関と門司を結ぶ全長3462mの関門トンネルを抜け、左に周防灘を見ながら南下、途中左側の海上に見えてきた「北九州空港」のターミナルビルが西陽を浴びて茜色に染まっている姿は、まるで海に浮かんでいるようにも見えた。その後しばらく南に走った後、国道10号線で今晩の宿泊地、中津に向かった。

12月11日 「東横イン・大分中津駅前」をチェックアウト後、福沢諭吉旧居と福沢諭吉記念館を訪ねた。旧居は諭吉が長崎に遊学するまでの幼少期から19歳までの青年期を過ごした家で自ら改造して勉学に励んだといわれる土蔵も当時のまま残されており、隣接して建てられた記念館には「学問ノススメ」の原本や数多くの遺品などが展示されていた。
記念館を出た後、豊臣秀吉を軍事参謀として支えたといわれる黒田官兵衛が築いた中津城に立ち寄って再建された天守閣や当時の石垣、外郭を守るための土塁などを見学した。その後、県道23号線を東に走り伊呂波川の手前、宇佐市天津(あまつ)にある第35代横綱・双葉山の生家と資料館のある「双葉の里」に向かった。

復元された生家は13.5坪の藁葺き屋根の平家で、双葉山が過ごした当時の間取りを再現したものだそうで、隣には木造一階瓦葺きの休憩室を併設した資料展示室があり、展示室に入ると正面に双葉山の等身大180cmのブロンズ像が立っており、室内には化粧まわし、そして現役時代の新聞記事や写真など貴重な品々が数多く展示されていた。
「双葉の里」の広場には2011年(平成23年)12月に双葉山の生誕100年を記念して、前人未到の69連勝を達成した双葉山の他、63連勝の記録を持つ江戸時代中期に活躍した二代目大関・谷風、そして63連勝を達成した第69代横綱・白鵬の3力士の四股名と手形が彫られた八角形の高さ2.5mの「超六十連勝力士碑」と刻まれた立派な御影石造りの石柱が高さ30cm程の四角い石の台座に立てられていた。12月3日の除幕式には宇佐市長をはじめ地元の財界人と関係者、大相撲界からは横綱・白鵬、豊ノ島、旭天鵬等、関取衆も数名参列したそうで翌4日には宇佐神宮で白鵬の奉納土俵入りが露払い松鳳山、太刀持ち嘉風で執り行われ、地元、九州の大勢の大相撲ファンにも大変喜こばれたそうだ。
「双葉の里」の風景をカメラに収めた後、車に戻り、県道23号線を周防灘に沿って東に走る予定だったが、改めて地図と旅行雑誌を広げて次の目的地をどこにしようかと考えた時に「四季の絶景に魅了される景勝地“耶馬渓(やばけい)”」と書かれたガイドブックの活字が目に入った。予定にはなかった所だったが、一度は行ってみたいと思っていた所だったので計画を急遽変更し、国道10号線と212号線で耶馬渓に向かった。

「双葉の里」から1時間程走り、田園の広がる樋田地区(ひだちく)に入ると右手に耶馬渓郵便局があった。折角だからそこで車を停め、定額貯金をした後、風景印を押して貰った。局印には“耶馬渓郵便局(青の洞門)”と押されていた。風景印の景色が私にはよくわからなかったので局員に尋ねると、本耶馬溪の中でも屈指の美しさだと言われている“競秀峰(きょうしゅうほう)”と手彫りのトンネル“青の洞門”をデザインした印だとの説明だった。私は「競秀峰」はガイドブックで紹介されていた美しい紅葉に彩られた写真を見ていたのですぐにわかったが、「青の洞門」については、知識がなく、あまりよく理解できなかったので車に戻りガイドブックで調べてみたら次のような説明がされていた。

【昔は樋田から青(いずれも今は本耶馬溪)に行くには山国川の上にそそり立つ岩壁に張られた鎖を命綱にして渡っていた極めて危険な難所で足を滑らせて命を落とす者もいたそうだが、江戸時代中期、諸国遍歴の旅の途中、ここに立ち寄った曹洞宗の僧・禅海がここに洞門(隧道・トンネル)を掘り、安全な道を作ろうと托鉢によって掘削の資金を集め、石工達を雇ってノミと鎚だけで30年という長い年月をかけて掘りぬいた全長342mそのうち隧道部分が144mの素掘りのトンネルで、大正8年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」は青の洞門を掘削した実在の僧、禅海の史実を描いた作品】と書かれていた。

折角だから「青の洞門」に行ってみようと思い、競秀峰の裾、曽木地区・青にある洞門に行ってみた。車で2~3分もかからなかった。隧道近くの路肩に車を停め、入口に向かうと“青の洞門”と彫られた1.5m程の高さの自然石が立てられており、左側には明治時代以降に造られたというバスが通れるくらいの縦・横3.5m位の隧道があり、その右側に1m幅位の車道と仕切られた遊歩道も造られていた。入口には信号機があり、上り下りが一方通行になっているらしい。
私は隧道入口からすぐ右手にある江戸時代中期に禅海と石工達によって30年をかけてノミと鎚だけで掘りぬかれた手彫りの洞門に入った。洞内は少し薄暗かったが右手奥の石壁を砕いて作った明かり採りから漏れてくる陽の光に照らし出されたノミと鎚で削りとった不揃いのゴツゴツとした岩肌が薄陽を浴びて鈍く光って見えた。洞内は狭いが、途中少し広くなったところに岩を削る姿の禅海と蓮の花の上に座った仏の石像があったが勿論、明治以降に彫られたものだろう。途中、石壁に開けられた大きな明かり採りの窓から下を覗いてみると耶馬渓の美しい山国川の清流が青く澄んでゆっくりと流れているのを見ることが出来た。

1時過ぎに本耶馬溪町を出てからは国道500号線を走り、切り立った岩峰に囲まれた跡田地区で「跡田簡易郵便局」そして更に奥の東谷地区で「東谷簡易郵便局」に立ち寄り局印を押して貰った。東谷の集落までは上り下り一車線の道だったが、しばらく走ると舗装はされていたが道は狭くなり、緩やかなアップダウンそしてヘアピンカーブも増えてきた。鹿嵐山の稜線の下を潜る「鹿嵐隧道」を越えてしばらくは狭い山道だったが宇佐市院内町にはいる頃には一車線の広い道に変わった。その先、院内町原口の信号を左折して国道387号線で宇佐神宮に向かった。
宇佐神宮には4時を過ぎた頃に着いた。全国に4万社あまりある八幡様の総本宮だそうで、建物は美しい朱色で屋根は檜の皮を重ねて造られた檜皮葺きで、檜皮には苔が生えていて、なんともいえない歴史の重厚感を漂わせていた。八幡造りの本殿で参拝をしたが一般的に神社の参拝は「二拝二拍手一拝」と言われているが宇佐神宮では出雲大社の様に「二拝四拍手一拝」が参拝の作法だそうだ。

今日は昼頃に宇佐市天津の「双葉の里」を訪ねた後、南に走り耶馬渓に行くために周防灘の海岸線から結構内陸に入りこみ、そのまま国道500号線を走り宇佐神宮まで来てしまったので、日豊本線と沿って走っている大分県道23号線の海岸線道路、約73kmを走り損ねたが、宇佐神宮から国道213号線を北上し、再び周防灘に流れ込む桂川の河口から国道213号線の海岸線に戻り、大分県の北端、伊美港のあるかつての“国見町”国東半島(くにさきはんとう)の東側、瀬戸内海に面した国東港、そして別府湾の海岸線を走り、今晩の宿「東横イン・大分駅前」に向かった。

  上段の写真 福沢諭吉記念館
  中段の写真 超六十連勝力士碑
  下段の写真 青の洞門

 

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