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熊本城、鞠智城、八千代座、田原坂まで

 投稿者:具志 有芳  投稿日:2018年10月13日(土)17時55分51秒
  豊洲市場が11日開場した。温度管理を徹底して鮮度を保つ為の閉鎖型の建物が最大の特徴のようだが、初日は周辺道路の渋滞や小さなトラブルはあったようだが、「築地.ブランド」を83年もの歴史を積み重ねてきた関係者の皆さん方の努力に拍手を送るとともに、これからは築地を上回る「豊洲ブランド」を是非構築してもらいたいものだ。

2012年12月22日(土)9時過ぎに熊本駅前のホテルを出てから北に少し走り、熊本城に向かった。二の丸駐車場に車を停め、西大手門をくぐり、2本の門柱の上に貫(ぬき 水平材)を通した冠木門(かぶきもん)の頬当御門(ほほあてごもん)から城内に入った。
“日本三名城”とは江戸城は別格として大阪城、名古屋城、熊本城を言うそうだが、熊本城は加藤清正が慶長6年(1601年)から7か年の年月を費やして完成させたそうで、城郭は周囲5.3km、面積は98万平方メートルにも及び、城内には大小の天守閣、そして120余の井戸を掘り、かつては49の櫓、18の櫓門、29の城門を備えた平山城で、天守閣は漆喰壁の下側に黒漆を混ぜた柿渋塗りの下見板張り(建物の外壁を横板張りにして板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張る工法)の黒い外観が特徴だそうだ。
また熊本城の石垣は、簡単に登れそうに見えるが、上に向かえば向かうほど反り返りが激しくなり、その造りは急な勾配と堅牢さで知られ、武士は勿論、身軽な忍者でも引き返してしまうことから「武者返し」の石垣と呼ばれているそうで、この石垣は加藤清正が近江の国から連れてきた石工集団がつくったといわれているそうだ。

熊本城の本丸御殿は加藤清正によって創建され、行政の場、そして藩主の生活空間として利用されていたそうだが、1877年(明治10年)の西南戦争で焼失したが、2003年(平成15年)の秋から始まった復元工事で大広間、数寄屋(茶室)、大台所そして昭君之間(しょうくんのま)が今では創建時の様相を取り戻しているそうだ。

本丸御殿にある式台之間を経て、玄関口であった一番手前から鶴之間(60畳)、梅之間(35畳)、桜之間(28畳)、桐之間(24畳)と4部屋あったが、それぞれの部屋の襖を外すと147畳の大広間になり、藩主との謁見の際、ここが家臣たちが座る場所だったそうだ。
その奥の一段高くなった部屋は藩主が座る若松之間(18畳)で、ここは本丸御殿の中でも最も格式の高い部屋となり天井が高く、襖には四季折々の松の絵が描かれており、金箔がふんだんに使われ、贅沢に造られた部屋だった。
そして更に奥にあったのが「昭君之間」(しょうくんのま)で室内は床の間や違い棚のある書院造りとなっており、壁や襖には中国の漢の時代の悲劇の美女・王 昭君(おう しょうくん)の物語が描かれており、漆塗り折上げ格天井の天井画には金箔の上に様々な花木の絵が豪華絢爛に描かれていた。
一説によると「昭君之間」は豊臣家の有事の際、秀吉の子・秀頼を密かに匿う(かくまう)ために加藤清正が造らせた特別の部屋だとも言われているそうだ。

熊本城を出た後、30分ほど北北東に走り、日本の古代の山城、鞠智城(きくちじょう)に向かった。
熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた鞠智城は7世紀後半(約1300年前)に大和朝廷が築いた山城で、当時日本は友好国であった百済(くだら)を復興させるために援軍を送ったそうだが、天智2年(663年)朝鮮半島の白村江(はしすきのえ 現在の錦江河口付近)で行われた「白村江の戦い」で唐と新羅(しらぎ)連合軍に大敗した事によって事態は急変し、直接日本が戦いの舞台になる危険性が生じた為、大和朝廷が日本列島の侵攻に備え、西日本各地に築いた城の一つで、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城(福岡県)、基い城(佐賀県)金田城(長崎県)が造られ、鞠智城はこれらの城に食料や物資などを送るための兵站基地(へいたんきち)の役目を担っていたそうで大宰府の南約62kmに位置し、周囲3.5km、面積55haの規模を持つ城だったそうだ。

草原の敷地内に足を運ぶとやや中央に、三層で屋根にはどっしりとした瓦を載せた高さ15m程の八角形の「鼓楼」があった。鼓楼から右手に目を移すと幅10m長さ7m程の 鞠智城の食糧倉庫「米倉」があり、湿気を防ぐための高床の校倉造りで、ねずみの害を防ぐための ”ねずみ返し”もついていた。
「米倉」の後方には幅7m長さ約26m位の土壁造りの建物があり、屋根は板葺きで壁には突き上げ式の窓が作られており、中は土間床の建物で、ここは防人(さきもり 古代、筑紫、壱岐、対馬など北九州の防備に当たる兵士)達が共同で暮らすための「兵舎」だったそうだ。
「兵舎」の近くには幅12m長さ約7m程の高床式、屋根は藁葺きの建物があったが、ここは武器や武具を保管する倉庫として使われていたとのことだった。
「鼓楼」をはじめとするこれらの建物は全てが、発掘調査で見つかった土塁、城門跡、貯水池跡等の遺構を考古学的に考証して復元されたものだそうだ。

3時過ぎに 鞠智城を出てから国道325号線を西に30分程走り、山鹿市にある芝居小屋「八千代座」に向かった。

八千代座は「旦那衆」と呼ばれる地元の実業家たちの手によって1910年(明治43年)に建てられた芝居小屋で、劇場内に一歩足を踏み入れると目に飛び込んでくる極採色の天井画の数々、そして館内を囲むように、赤い提灯が下げられた二階桟敷席の壁面にはたくさんの広告画が架けられていた。これらはすべて八千代座界隈にある商店の広告だそうだが大正時代独特のレトロな味わいをかもし出しており、さらに空間の華やぎを加えていたのが大きな真鍮製の豪華なシャンデリア、今でこそ小さな電燈が六つ点いていたが当時はガス灯が灯されていたそうだ。

木造、2階建ての建物は桝席、桟敷席の客席や奈落(舞台や花道の地下のこと)で人力で動かす廻り舞台など、江戸時代の歌舞伎劇場の造りを残しており、1988年(昭和63年)国の重要文化財に指定されたそうだ。現在も板東玉三郎をはじめ多くの歌舞伎役者たちが舞台を飾るそうだが、私が訪ねた時には今月の5日に若干57歳の若さで亡くなった十八代目中村勘三郎を偲んで舞台姿の大きな写真が芝居小屋の狭い廊下に沢山飾られていた。

日本各地には八千代座のほかにも歴史のある芝居小屋が残されており、金毘羅神宮・門前町にある日本最古の芝居小屋で1825年(天保6年)に設立された「旧金毘羅大芝居」別名金丸座(香川)や、1901年(明治34年)に造られた兵庫県豊川市出石に設立された「永楽館」、そして1916年(大正5年)に設立されて現在も歌舞伎が演じられている内子座(愛媛)などが全国的に有名なようだ。
「八千代座」を出てから熊本県道55号線を南西の方向に走り、熊本市植木町にある西南戦争の激戦地「田原坂」に向かった。

「雨は降る降る陣羽(人馬)は濡れる 越すに越されぬ田原坂」
「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな)馬上豊かな美少年」
  (西南の役の悲劇を伝える哀歌 熊本民謡「田原坂」より)

一の坂、二の坂、三の坂とだらだらと続く1.5km、標高差60mの曲がりくねった細くゆるやかな坂道、熊本民謡にも歌われた「田原坂」を上りきった所に新政府軍.、薩摩軍、双方から鉄砲や大砲の銃撃を受け、白壁に無数の弾痕が残り、戦いの激しさを物語っていた土蔵が目前に現れた。西南戦争後、「弾痕の家」と呼ばれている建物だ。

明治新政府の近代化政策によって武士としての誇りも職も失った薩摩士族たちの反乱軍、そしてそれを制圧する為に戦った新政府軍との戦い「西南戦争」の戦場になったのは鹿児島県、熊本県、宮崎県、大分県と九州の広い地域に及んだが、その時の戦力は政府軍6万に対し薩摩軍3万、戦死者は両軍合わせて14000人、その四分の一が西南戦争最大の激戦地、田原坂で亡くなったそうだ。

明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、このうちの7日間は、みぞれまじりの雨また雨の悪天候だったと伝えられており、互いに一進一退の攻防を繰り返し、田原坂に立つ白壁の土蔵はその壮絶な戦いを思い起させる日本史に残る建物だそうだ。
土蔵の隣には熊本城の天守閣を模した漆喰壁の下に黒い下見張りの板を張った「田原坂西南戦争資料館」があった。瓦葺きの屋根の上部には採光や風通しを良くするための小さな屋根組を載せた「越し屋根」をつけた洒落た造りになっていた。

館内に入ると洗練された帽子をかぶり色鮮やかな軍服を着て右手に剣を装着した銃を持つ革靴姿の新政府軍兵士や、江戸時代の姿を少し引きずったような、袴姿に厚手のシャツを着て腰には日本刀を差し、わらじを履いて鉄砲を持った薩摩軍の兵服姿の等身大の展示もあり、他にも戦いで実際に使われていた刀、そして銃や大砲、銃弾、沢山の写真などが数多く展示されていた。

展示品の中でも特にびっくりしたのは「空中かちあい弾(だま)」と呼ばれるもので「行合弾(ゆきあいだま)とも言われるそうで、17昼夜にわたる「田原坂の戦い」で官軍が使った弾薬は一日平均32万発だったそうだが、戦場で双方の撃ち合った弾が空中で衝突したもので、当時使われていた弾は鉛の丸玉で、二つの鉛の弾頭がめり込んで一つになってしまったり、ぶつかった衝撃で変形したもので、1904年(明治37年)の日露戦争における旅順攻撃の際、日本軍が撃った銃弾の数がおよそ30万発だったそうなので、田原坂での戦闘がいかに壮絶な戦いであったかということは史実に間違いのないようだ。

展示室の中に両軍の兵士たちが戦場で食べていた食料が展示されていた。主食は両軍とも竹の皮に包まれたおにぎりで、中身は梅干しと鰹節が入っており、それに漬物の沢庵が添えられていた。おかずは高野豆腐やこんにゃく、牛蒡の煮込み等がつけられており、他にも干イワシ、スルメなどもあったようだ。そして官軍食にはビスケットが添えられていたが薩摩軍食には小さな丸餅がつけられていた。特に興味を引いたのは官軍食にはウオッカ、ビール、ワインなども献立表にあったようだが、薩摩軍にはそれはなかったようだ。しかし館内の別の場所にあった説明書きには薩摩軍が早朝の “斬りこみ隊”を出陣させる前の晩は酒盛りをやっていたと書いてあったので酒か焼酎は献立表にあったのかもしれない。

「田原坂西南戦争資料館」を出た時には陽はすっかり西に傾いていた。周囲を雑木林に囲まれた田原坂を下り、国道3号線に出てから南に走り、再び熊本駅前に戻り夕べ泊まった「東横イン・熊本駅前」に向かった。

  上段の写真 熊本城天守と小天守
  中段の写真 八千代座 天井と壁面を飾る広告画と桝席・桟敷席
  下段の写真 田原坂 戦場の新政府軍と薩摩軍の食事

 
 

岡村先輩

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年10月12日(金)19時20分11秒
編集済
  お馴染みの有楽町交通会館のギャラリーは、平日にも拘わらず、
混んでいました。
岡村先輩も元気で来場者の応対に追われていらっしゃいました。

後姿が岡村先輩です。
展示されている岡村先輩の絵画は、
左:「モンパルナスの街角」 右:「エッフェル塔」です。
 

イベント2題

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年10月 4日(木)06時18分13秒
  ①放研5期岡村参次先輩の展覧会
卒業以来創作活動を続けていらっしゃる先輩がこの秋も出展されます。
場所は、有楽町「東京交通会館1F ギャラリー パールルーム」
時は、 10月7日(日)~13日(土)10時から18時
  出品2点 「パリエッフエル塔」「パリ モンパルナスの街角」です。

②放研12期志村弘昭君が紙芝居で活躍です。
砂岡が運営している大田区のシニアの居場所つくり事業でイベントを行います。
「朗読・紙芝居・歌のつどい」(入場無料)
日時 平成30年10月15日(月曜) 13時~15時
場所 中ノ郷信用組合大森支店
 大田区山王2丁目19番1号(JR大森駅から徒歩7分位)
第一部 「朗読」 童話作家 宇都宮みどり
第二部 「紙芝居」“大森貝塚ものがたり”紙芝居画家 志村弘昭
第三部 「ミニコンサート」と「全員で合唱」宇都宮みどり他
 

根津神社 例大祭

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年 9月17日(月)16時18分56秒
   根津神社のお祭りは、正徳4年(1714年)、六代将軍 徳川家宣が幕制により根津神社の祭礼を定めたことが始まりだと言われています。江戸の全街から山車を出し、「天下祭」と呼ばれるほどの壮大な祭礼であったそうです。

 この祭りは、赤坂山王神社も山王祭、神田明神の神田祭と並んで江戸三大祭りとも言われます。

 今年は4年に1度の神幸祭が行われます。

 16日の(日曜)午後、及川君と出かけてみました。午後3時過ぎに「ゆうcafé」に集合。
まずは、「ゆうcafé」近くの不忍通りで、本社神輿や宮司さん稚児さんの人力車などのお練りを見学。しばらく、「ゆうcafé」で休憩し、帰りのお練りに付いて根津神社へ。
 神社境内はかなり広いが、露店が立ち並び、大勢の人出で溢れ、歩くのも容易ではない。祭りの雰囲気を堪能して、「ゆうcafé」に戻り、一献(ノンアルコールも)傾けながら、8町会の神輿の集結を待つ。(毎年、町会神輿は、「ゆうcafé」の真ん前に集結し、解散する。)

 この日は。「ゆうcafé」は、馴染客だけに開放していたため、マダムとゆっくりお話しが
できました。いつもは寡黙な?二人(及川。砂岡)にとってもゆっくり懇談ができ、お祭りの高揚感もあり最良のひとときでした。

(画像上段) 本社神輿の渡御(神輿は台車の乗っており、担がないし、声も出さない。)と稚児さん達。(画像後ろが「ゆうcafé」)

(画像中断) 根津神社氏子のマダムはお練り中のオジサンと歓談。馬車の宮司は、マダムの小学校の同窓生。

(画像下段) 「ゆうcafé」前に神輿が集結
 

地震や台風

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年 9月 9日(日)19時07分31秒
  このところ本当に災害が多いですね。自然災害なので、文句を言う相手もいませんが、
困ったものです。

北上さんのところは、電気も通じて普段の生活の戻ったようで何よりです。

札幌在住の堂前さん(15期)、乗安充和さん(13期)も無事だったようです。(停電には
困ったようですが)

21号台風で、俊ちゃんの丹精込めて作ったミニ庭園が崩壊したそうでお見舞い
申し上げます。

21号台風は、新潟沖を通過しましたが、安藤さんのところは無事ふだったそう
です。
 

地震お見舞お礼申し上げます!

 投稿者:北上 尊司  投稿日:2018年 9月 7日(金)16時48分23秒
   先ほど(16:10頃)、自宅の電気が付きました。
昨日の夕方から徐々に通電し、今日の正午までにほぼ札幌市内は復旧したようでしたが、何故か自宅周辺は今になりました。
これで冷蔵庫やトイレ、お風呂が使えるようになりました。
同期の皆様から、沢山のお見舞いやら安否の確認がありました。
個々にお礼をと思いましたが、それも大変なので掲示板へ掲載して皆様へのお礼に代えさせていただきました。
停電がこのように長くかかったのは、北海道電力最大規模の浜厚真火力発電所が震源地に近い場所にあったことで、ダメージが多きかっようです。
その浜厚真発電所がダウンしたことで他の発電所も一斉に停止したようです。
その後、徐々に安全を確かめながら他の発電所を再開したそうです。
報道では、過去の教訓が生かされていないことが指摘されていました。

おかげさまで、ガスと水道が大丈夫でしたので、それほど不安には思いませんでした。
ただ、仕事で出た親が、学校や保育所が休校のため孫を預かり、その世話が大変で今も親の帰りを待っています。
当然迎えに来た後は食事をしていくことでしょう!

私のところは、そういうことですが、札幌でも清田区・厚別区・北区の地盤の弱いところは被害が出ているようなのと、震源地に近い厚真町や安平町は大きな被害が出ていることが分かりました。
今後の復興が大変と思うに、これまでの災害地のことを考え心が痛みます。
皆様ご心配をおかけいたしました。
ありがとうございます!
 

北上君の現状

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年 9月 7日(金)09時35分15秒
  今朝、北上からのショートメールです。

息子と娘の所は通電しましたが、わが家はまだです。夕方になりそうです。水、ガスは大丈夫なので食事はOK
 

北海道胆振地震

 投稿者:砂岡  投稿日:2018年 9月 6日(木)08時01分58秒
  北上君から状況報告ありました。
北上宅では人身、物損とも被害なし。
但し、札幌市内は停電しており、復旧
の目処が立たないのを心配しています。
携帯も充電できない模様なので、お見舞
電話はしばらく控えてください。
 

“和風庭園”が壊されました

 投稿者:高橋俊次  投稿日:2018年 9月 5日(水)17時26分6秒
  台風21号の被害届け(笑)。
南側ベランダに造っていた“和風庭園”が強風で重い石を除き
飛ばされ、見る影もなくなりました。幸い全てベランダ内での
出来事で済み、外部への影響はありませんでした。
見るも無残な姿はお見せできませんが(訳あって写真もありません)
それではさみしいので破壊前の姿を載せます。
残念がって下さい!  俊。
 

台風21号

 投稿者:砂岡茂明  投稿日:2018年 9月 5日(水)15時09分20秒
  四国から近畿を抜けた21号ですが、皆様の地域ではいかがでしたか。
台風は、6月に大きな地震があった高槻方面も直撃しました。高槻三氏の様子ですが、
結論的には、大きな被害は無かったそうです。
小山氏: マンションには雨戸がないので、窓に当たる風が強く不安でした。マンションの
    ベランダの隣家との境界の壁(非常時には壊して通り抜ける仕様)が壊れました。
    ベランダから外を見ると、屋根を覆っていたブルーシート(多分地震の影響)が
    飛ばされていたり、いろんな物が飛び散っているのが見えます。
関 氏: 凄い風だった。外に置いてあった物入れが倒れ、車に当たらずに助かった。
周りにはいろんな物が風で飛ばされてきた。
正勝氏:地震で崩れた屋根の補修は終わっていたので、これといった被害はない。

その他、富岡氏にも訪ねてみたが、岡山は、進路から少し外れたこともあり、
風は強かったがいつもとあまり変わらなかった。
また、北上氏は、今朝の2時から4時頃は、物凄い風で眠れなかった 特に被害はない。

ということで、今回はどなたも被害はなかったようですが、災害の準備は怠りなきように
しましょう。
 

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